
氏族
陸奥北部を本拠とした武家。盛岡藩主家・八戸藩主家として近世を通じ存続した。
南部氏は中世から近代にかけて陸奥北部を本拠とした武家氏族で、戦国期には三戸南部氏が北奥羽全域に勢力を広げた。寛永十二年(1635 年)に三戸から盛岡城へ本拠を移し、寛文四年(1664 年)の家督相続にあたって盛岡藩・八戸藩二家に分立した。
出自として清和源氏義光流(甲斐源氏)を称し、加賀美遠光の三男・南部三郎光行を初代と伝える系譜が伝来する。光行が文治五年(1189 年)の奥州合戦の戦功により陸奥国糠部五郡を拝領したとの記事は、確実な資料による南部氏の奥州領有が鎌倉時代末期から確認できる点を踏まえると後世の作と指摘されており、Wikipedia「南部光行」記事もこの点を明記する。本記述では『尊卑分脈』・寛政重脩諸家譜所載の系譜を伝承として参照しつつ、文治五年拝領の記事は留保扱いとする。
天正十八年(1590 年)、三戸南部氏第二十六代南部信直は豊臣秀吉から岩手郡を含む七郡の本領を安堵され、慶長十一年(1606 年)には南部利直の算用状で「盛岡」の地名が確認されると盛岡市公式が伝える。寛永十二年(1635 年)に本拠を盛岡城へ移して盛岡藩を成立させ、寛文四年(1664 年)二代藩主重直の没後に弟・南部直房が二万石を分与されて八戸藩初代藩主となった。八戸藩は将軍裁定により成立した独立藩であり盛岡藩支藩ではないと八戸市公式が記す。
盛岡市内には旧盛岡藩主南部家から寄贈された約二千点の文化財資料を中核とするもりおか歴史文化館が立地し、城下町盛岡の成立過程や南部家史料を展示する。岩手・青森・山梨の十市町は「令和・南部藩」として南部氏の歴史的版図を踏まえた広域交流を継続している。
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集(甲斐源氏巻)
一次文献洞院公定 撰
甲斐源氏加賀美氏条に南部光行関連の系譜を所載する
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771960寛政重脩諸家譜(清和源氏巻 南部氏項)
一次文献堀田正敦 編
幕府編纂の武家系譜集。南部氏は清和源氏義光流(甲斐源氏)として収録される
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000869904寛政重修諸家譜 巻第百三十七 南部
一次文献幕府編纂(堀田正敦総裁)
『寛政重修諸家譜』巻第百三十七は、甲斐源氏 加賀美遠光の三男 光行を祖とする南部氏の系譜を整理し、糠部下向・三戸南部の歴代・盛岡藩立藩までの補任・領知関係を一次史料として伝える。
https://dl.ndl.go.jp/八戸藩の歴代藩主 八戸市公式
機関資料八戸市
南部直房から南部信順まで九代の八戸藩主が南部姓で記載される
https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/somuka/hachinoheshinoshokai/1/1/4389.htmlもりおか歴史文化館 公式サイト
機関資料盛岡市
旧盛岡藩主南部家から寄贈された約二千点の近世文化財資料を中核に展示する
https://www.morireki.jp/盛岡市の歴史 盛岡市公式
機関資料盛岡市
三戸南部氏二十六代南部信直の七郡安堵と盛岡の地名成立を公式に記載
https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009334.html南部光行 – Wikipedia 日本語版
二次資料Wikipedia contributors
文治五年糠部五郡拝領の記事は後世の作と指摘される
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%85%89%E8%A1%8C南部氏 – Wikipedia 日本語版
二次資料Wikipedia contributors
清和源氏義光流甲斐源氏に出自を称する。寛永十二年に本拠を三戸から盛岡城に移した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F南部氏 - Wikipedia 日本語版
二次資料Wikipedia contributors
南部氏の系譜・本拠地・主要人物・後世展開に関する二次整理。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F