
氏族
藤原利仁流に発するとされる武家。賤ヶ岳七本槍の加藤清正・嘉明らを輩出し、肥後熊本藩・伊予松山藩主家として近世大名化した。
加藤氏(かとうし)は、藤原氏 利仁流の流れを称する武家氏族。加賀斎藤氏の支流とされ、賤ヶ岳七本槍の加藤清正・加藤嘉明らを輩出して安土桃山期から江戸初期にかけて大名家として確立した。江戸期は肥後熊本藩(後に細川氏と交代)・伊予松山藩・近江水口藩などの大名・旗本家として続いた。
『寛政重修諸家譜』巻第四百四十一 加藤は、加藤氏の主流を藤原北家魚名流 藤原利仁の後裔 加賀介 藤原景道(加賀斎藤氏の祖)に発し、景道の子 景員が加賀守在任中に「加」の字を取って加藤を称したと伝える家伝を整理する。別流に藤原道長流を称する系統(加藤清正の家伝)もあり、複数の出自伝承が並存する。神格を祖とせず藤原鎌足を遠祖とする藤原氏支族として位置づけられ、加賀・尾張・三河・伊勢など各地に分流した。
加藤光泰(1537–1593)は美濃出身で豊臣秀吉に仕え、文禄の役の途上に没した。加藤清正(1562–1611)は秀吉の子飼い武将として賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、文禄・慶長の役で活躍、関ヶ原で東軍に属して肥後熊本五十二万石を領した。築城技術に優れ、熊本城を築いて居城とした。子 加藤忠広(1601–1653)は寛永九年(1632 年)に改易され、熊本は細川氏に与えられた。加藤嘉明(1563–1631)は同じく賤ヶ岳七本槍の一人で、伊予松山二十万石を領し、後に陸奥会津四十万石へ加増移封された。子孫は石見吉永藩・近江水口藩主家として続いた。
加賀斎藤氏(藤原利仁流)は加藤氏と同じ祖を持つとされる本宗で、加賀国の在地武士団として『尊卑分脈』『寛政重修諸家譜』に系譜が記される。賤ヶ岳七本槍の他の福島正則・脇坂安治・平野長泰らとも豊臣譜代として並び、加藤清正の熊本築城は加藤譜代の家臣 飯田覚兵衛・庄林一心らによって支えられた。
寛政重修諸家譜 巻第四百四十一 加藤
一次文献堀田正敦 ほか 編
寛政重修諸家譜(1799–1812 年成立)巻第四百四十一は、加藤氏について藤原利仁流(加賀斎藤氏系)と藤原道長流の二系統を整理し、賤ヶ岳七本槍の加藤清正(肥後熊本藩主家)と加藤嘉明(伊予松山藩主家)の家譜を中心に、賜姓・本貫・分流を示す。国立国会図書館デジタルコレクション原本を参照。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082720加藤氏 - Wikipedia 日本語版
二次資料Wikipedia contributors
加藤氏の系譜・本拠地・主要人物・後世展開に関する二次整理。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B0%8F