
氏族
三田井氏(みたいし)は、天照大神(三毛入命)や祖母嶽大明神(大神惟基)に連なる子孫で、高貴の一族として現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町にあたる日向国高千穂地方(高知尾)を治めた高千穂氏の末裔である氏族。
三田井氏(みたいし)は、中世日向国臼杵郡高千穂郷(現宮崎県西臼杵郡高千穂町)を支配した在地武家氏族。豊後大神氏の流れを汲む高千穂氏の末裔で、鎌倉後期に高知尾三郎政重の後を継いだ武政が本拠地名 三田井をとって改姓したと伝える。天正末期まで高千穂十八郷を支配したが、豊臣秀吉の九州平定後の地域再編で滅亡した。
本姓は大神(おおが)氏。豊後大神氏の祖 大神惟基(生没年不詳、平安中期)に連なる子孫が日向国高知尾(高千穂)に下向して土着し、高千穂氏を称した。鎌倉後期、高知尾三郎政重の後を継いだ武政の代に、本拠とした三田井(高千穂の主邑)の地名をとって三田井氏と改姓したとされる。豊後大神氏は緒方氏・佐伯氏など九州山間部の有力武家を多く出した同祖系譜の一群を成す。
三田井親武(生没年不詳、16 世紀前半–末)は永正元年(1504 年)から天文八年(1539 年)にかけて高千穂神社(十社大明神)・後河内神社・荒立神社・二上神社など高千穂郷の主要神社を再興し、地域祭祀の保護者として勢威を示した。豊臣秀吉の九州平定(1587 年)後の領域再編で、天正十九年(1591 年)に親武は日向延岡の高橋元種に攻められて討たれ、子 三田井重武も慶長二年(1597 年)に自刃して宗家は滅亡した。
高千穂神社(十社大明神、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井)は三田井氏歴代が再興・庇護した高千穂郷の総鎮守で、現在も三田井氏奉斎の伝承を継ぐ。荒立神社(同町三田井)・二上神社(同町三田井)も親武再興の社として残り、菩提寺の徳源寺は現在失われたが、三田井氏館跡を中心とする祭祀景観が地域に継承される。
高千穂太平記
一次文献甲斐宗摂(江戸前期 高千穂在地の編者)
日向国臼杵郡高千穂(現宮崎県西臼杵郡高千穂町)の在地武家 三田井氏の盛衰を編年で記す江戸前期の地方軍記。豊後大神氏 大神惟基に発する高千穂氏・三田井氏の系譜、十社大明神(高千穂神社)以下の神社造営、天正十九年(1591 年)の高橋元種による高千穂攻略までを伝える基本史料。
三田井氏 - Wikipedia 日本語版
二次資料Wikipedia contributors
三田井氏の系譜・本拠地・主要人物・後世展開に関する二次整理。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E4%BA%95%E6%B0%8F