
氏族
大友氏(おおともし)は、武家・士族だった日本の氏族。鎌倉時代初期に相模国大友郷に興った。鎌倉時代に豊後国大野荘の地頭職や豊後守護に補任され、南北朝時代・室町時代には、豊後国、豊前国、筑後国を支配する有力守護大名となり、戦国時代には戦国大名化した。
大友氏(おおともし)は、相模国足柄上郡大友郷(現神奈川県小田原市東大友・西大友)を本貫地として興った武家。鎌倉前期に豊後国守護に補任されて下向し、南北朝・室町期を通じて豊後・豊前・筑後を支配する九州の有力守護大名として展開した。戦国期にキリシタン大名としても知られる大友義鎮(宗麟)が出、最盛期には六か国に勢力を及ぼした。江戸期は高家旗本家として存続。通字は「親」「貞」。
家祖は大友能直(よしなお、1172–1223)。実父は相模国愛甲郡古庄郷司 近藤能成、母は波多野経家の女とされ、源頼朝の側近 中原親能(ちかよし)の猶子(ゆうし)となって元服した。『寛政重修諸家譜』巻第七十二は、能直の出自について藤原秀郷流とする説と藤原利仁流とする説を併記する。能直は母方の所領 相模国大友郷を継いで大友を称し、建久七年(1196 年)に豊後国守護および鎮西奉行の補任を受けたと伝わる。同祖系譜には戸次氏・志賀氏・田原氏など豊後の有力庶子家が連なる。
六代当主 大友貞宗(さだむね、?–1334)は元弘三年(1333 年)の鎮西探題北条英時討伐に与同し、九州における後醍醐天皇方の主軸となった。二十一代 大友義鎮(宗麟、1530–1587)は天文十九年(1550 年)の二階崩れの変で家督を継ぎ、永禄年間に肥前・肥後・筑前まで勢力を拡大、永禄四年(1561 年)にフランシスコ・ザビエル来日後の南蛮交易を主導した。天正六年(1578 年)の耳川合戦で島津義久に大敗し急速に衰退、その子 大友義統(よしむね、1558–1610)は文禄二年(1593 年)に朝鮮役での失態を理由に豊臣秀吉から改易された。
豊後大友氏の支流には戸次氏(立花道雪を出した戸次鑑連の系統)・志賀氏・田原氏があり、戸次氏は天正九年(1581 年)に大友義鎮から立花姓を与えられて立花氏(後の柳河藩主家)の祖となった。同祖系譜の中原親能の系統には朽網氏・木付(杵築)氏が連なり、豊後支配の中枢を形成した。
寛政重修諸家譜 巻第七十二 大友
一次文献幕府編纂(堀田正敦総裁)
『寛政重修諸家譜』巻第七十二は、相模国大友郷を苗字の地とし鎌倉期に豊後守護として下向した大友氏の系譜・補任を整理し、戦国末の改易と高家旗本としての近世存続までを一次史料として伝える。
https://dl.ndl.go.jp/大友氏 - Wikipedia 日本語版
二次資料Wikipedia contributors
大友氏の系譜・本拠地・主要人物・後世展開に関する二次整理。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F