
氏族
藤原北家道兼流から下野国宇都宮に下った武家。下野二荒山神社の社務職と宇都宮城を本拠に、関東の名族として続いた。
下野宇都宮氏(しもつけうつのみやし)は、藤原北家道兼流に発し、下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)を本拠とした関東の名族。下野国一宮 二荒山神社(宇都宮明神)の社務職を世襲し、鎌倉期から戦国期にかけて宇都宮城を中心に下野国中部を支配した。豊臣秀吉による天正十七年(1589 年)の宇都宮仕置で本領を安堵されたが、慶長二年(1597 年)に改易され、本宗家は滅んだ。
『尊卑分脈』藤原氏 道兼流は、関白藤原道兼(961–995)の曾孫 宗円を宇都宮氏の祖とする。宗円は十一世紀末に下野国二荒山神社の座主として下向し、宇都宮の地に土着したと伝える。藤原秀郷流など複数系の出自伝承も並存し、家譜上は道兼流が公的系譜として『尊卑分脈』に整理される。同祖系譜の傍流として、伊予国宇都宮氏(豊前宇都宮氏から分立)、筑後国宇都宮氏など、各地に分流を持つ。
宇都宮朝綱(1122–1204)は源頼朝の挙兵に従い、治承・寿永の内乱で坂東武者として活躍した。『吾妻鏡』に頼朝から「坂東一の弓取り」と評されたと記される。鎌倉中期の宇都宮頼綱(1172–1259)は藤原定家と親交を結び、定家撰の小倉百人一首は頼綱の小倉山荘襖絵の色紙形が原型と伝えられる。室町期の宇都宮持綱は永享の乱で関東管領上杉憲実方として戦った。戦国期の宇都宮広綱・国綱父子は北条氏・佐竹氏との抗争を続け、国綱は天正十七年(1589 年)の小田原征伐に参陣して本領安堵を得たが、慶長二年(1597 年)に石田三成の讒言とも伝えられる理由で改易された。
宇都宮一門には、芳賀氏(清原氏出自を称し宇都宮氏家老職を世襲)、塩谷氏、横田氏、武茂氏、上三川氏など下野国内の有力国人が連なり、宇都宮氏は「紀清両党」と呼ばれる芳賀(紀党)・益子(清党)の二大家臣団を擁した。同じく道兼流を称する氏族には九州の豊前宇都宮氏(後の城井氏)があり、こちらも『尊卑分脈』に系譜が連なる。
尊卑分脈 第二篇 藤原氏 道兼流
一次文献洞院公定 編
尊卑分脈(南北朝期、洞院公定編、1377 年頃成立)藤原氏系図 道兼流の章は、宇都宮宗円を藤原北家関白道兼の曾孫として下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)に下向した経緯と、宇都宮二荒山神社の社務職を世襲した家譜を整理する。国立国会図書館デジタルコレクション原本を参照。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991096下野宇都宮氏 - Wikipedia 日本語版
二次資料Wikipedia contributors
下野宇都宮氏の系譜・本拠地・主要人物・後世展開に関する二次整理。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%87%8E%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F