
氏族
宇多源氏 佐々木氏嫡流の武家。近江南半国の守護として観音寺城を本拠とし、戦国末期に織田信長に攻められて没落した。
六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏 佐々木氏の嫡流を継いだ武家。京都六角東洞院の邸宅に因んで佐々木泰綱の代に六角を称し、近江南半国(南近江、現在の滋賀県南部)の守護として観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)を本拠とした。室町期は近江守護として京極氏(北近江守護)と並び、戦国期に分国法『六角氏式目』を制定したが、永禄十一年(1568 年)に織田信長の上洛戦で観音寺城を失って没落した。
『尊卑分脈』源氏部 宇多源氏 佐々木氏の系図は、宇多天皇の皇子 敦実親王に発する宇多源氏のうち、近江国蒲生郡佐々木荘を本貫とした佐々木氏の嫡流 信綱の二男 泰綱を六角氏の祖と記す。佐々木信綱の四子からはそれぞれ六角・京極・大原・高島の四家が分立し、六角・京極が惣領家を争った。同祖の宇多源氏としては、安芸毛利氏に並ぶ佐々木一門諸氏が各地に分流した。
六角泰綱(1213–1276)は鎌倉中期に佐々木氏惣領家として近江守護に補任され、六角氏の初代となった。室町中期の六角高頼(1462–1520)は長享元年(1487 年)の長享の乱で将軍 足利義尚・義稙の親征を受け、観音寺城を堅持した。六角定頼(1495–1552)は管領代として将軍 足利義晴・義輝を支え、近江源氏 六角氏の最盛期を築いた。子 義賢(1521–1598)・義治(1545–1612)父子は戦国末期の動乱で観音寺騒動(永禄六年、1563 年)の内紛により家臣団の離反を招き、永禄十一年(1568 年)の織田信長の上洛戦で観音寺城を失って甲賀へ逃れた。義賢は本能寺の変後に旧領復帰を試みたが果たせず、慶長三年(1598 年)に没した。
同祖の佐々木氏 京極家は北近江守護として並立し、応仁の乱後の近江では六角・京極両家の対立が続いた。京極氏の傍流からは京極高次(若狭小浜・後丹後宮津・後出雲松江)など江戸期大名家が出ている。六角氏家臣の蒲生氏(蒲生氏郷の家系)は安土の地縁から織田信長に近侍し、後に会津若松藩主家として独自に発展した。
尊卑分脈 第三篇 源氏 佐々木氏
一次文献洞院公定 編
尊卑分脈(南北朝期、洞院公定編、1377 年頃成立)源氏系図 宇多源氏 佐々木氏の章は、佐々木信綱の二男 泰綱が京都六角東洞院の邸宅に因んで六角を称し、近江南半国守護として近江源氏 佐々木氏嫡流を継承した家譜と、京極氏・大原氏・高島氏との分岐を系譜的に示す。国立国会図書館デジタルコレクション原本を参照。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991096六角氏 - Wikipedia 日本語版
二次資料Wikipedia contributors
六角氏の系譜・本拠地・主要人物・後世展開に関する二次整理。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F